当ブログ管理人の「TOMOYA」ですが、小説が好きでいつか小説を書いてやろうと思い、中途半端ですが短編小説を書いてみましたので、よろしければ読んで下さい!
鎌倉の「人力車」というものに目をつけ、俥夫(人力車を引く人)から見る乗客の人間模様を描いた作品になります。できればシリーズ化させていきたいと思っています。
鎌倉人力車物語 ースタート地点ー
俥夫の陽一は、いつものように朝から鎌倉駅西口で客引きを行っている。
鎌倉の観光客は一年中多いと言えど、何でもない平日の朝から人力車に乗ろうという人は少ないようである。
「今日みたいな中途半端な日はホント難しいよなぁ」
同僚俥夫の聡は陽一に話しかける。
「ああ…」
陽一は少し眠いのか、まともな返事すらもできないほどボーッとしている。
鎌倉駅に東京方面からの電車が到着し、周りを見渡しながら改札を出てくる人だかり。
その中に、改札を出てくると同時に日傘を差し、こちらに向かってくる一人の女性を陽一は見逃さなかった。
「観光ですか?もし良かったら人力車で鎌倉をご案内します!」
そこまで太陽は出ていないが、日傘をしっかり差し、今では珍しいようなコテコテのワンピース、身長は低めだが姿勢が良くシュッと立っているせいか、モデルのような佇まい、
年齢は30代後半といったところだろう。
おそらくどこかのお金持ちの奥さんに違いない、と陽一は確信していた。
「そうねぇ。せっかくだから乗ってみようかしら」
その女性は陽一と目を合わせる事なく淡々と返事をした。
陽一は一度断られる頭でいたので少し拍子抜けしたのか、あわててコースの説明を始める。
なんとか平然を保って説明を始めたが、女性は全く聞いていないようで、少し風が来る方向を眺めていた。
「海へ行ってもらえるかしら」
女性はそういうと、初めて陽一と目を合わせる。
鎌倉駅から海へ行くコースというと、若宮大路を走って由比ヶ浜に行くか、由比ヶ浜通りから長谷に抜け、坂の下から134号線に出て七里ヶ浜へ行くルートである。
陽一は、どちらに行きたいか確認しようと思ったが、それを言うまでもなく七里ヶ浜へ行きたいと答えた。
女性は人力車に乗り、陽一はそれを引き始める。
そして、早々その女性は名前を名乗ってきた。
「私は順子と言います」
このタイミングで自分から名乗ってくる客は珍しく、陽一は少しおかしくなりニヤけてしまったが、それを満面の笑みに変えて「僕は鎌倉力車の陽一です!」と答える。
由比ヶ浜通りを走りながら、見えてくる風景の説明をする陽一もすっかり一人前の俥夫になった。
体力には自身があったが、人とのコミニュケーションが苦手だった陽一からすれば、もの凄い成長と言えるだろう。
しかし、そんな陽一の話は上の空と言った感じで、順子は一点を見つめながらただ淡々と乗っている感じだった。
「順子さん、今日はどういった目的で鎌倉に来られたのですか?」
陽一は積極的に順子に話しかける事に切り替えた。
何を考えているのかわからない順子と何とかコミニュケーションを取りたいと思ったのだ。
おそらく、お金持ちの人妻がふらっと暇潰しに来たのだろう、インスタ映えしそうなカフェなんか教えてあげれば喜ぶかな。
と思っていた矢先、背中が凍りつくような答えが返ってきた。
「死に場所を探しに来たの」
出会い
人間というのは、その地名を聞いただけで住んでいる人のイメージを思い浮かべるのが得意な生き物だ。
しかし、それはただのイメージだけでなく、実際にイメージ通りの人が住んでいる、また集まってくる事も事実だ。
東京で言えば、広尾、二子玉川、麻布、成城、田園調布という地名を聞けば、いわゆる「セレブの街」というイメージが湧いてくるが、実際にセレブが多い事は間違いない。
そして、順子もこの「セレブの街」と言われる成城で生まれ育ち、周りから「お嬢様」ともてはやされる事もあった。
順子は、一人っ子として育った。
父親は有名国立大を卒業後、有名商社に入社し、いわゆる絵に描いたようなエリート街道を歩んでいる。
母親は音大卒業後、都内の有名私立高校で音楽の教員をしている。
順子も母親の影響もあり、幼い頃からピアノとバイオリンを習っていたが、それは淡々とこなすだけのものであった。
特に音楽好きでもなかったが、母親が音楽の教員という事もあり、子供ながら自分には変える事のできない運命だと悟っていた。
そんな環境で育っていた事もあり、順子は恋愛に対して興味などなく、どちらかというと恋愛を楽しんでいる同年代の女性を見下しているようであった。
順子は母親と同じように音大には入らず、都内にある某お嬢様学校に通っていた。
もちろん、アルバイトなどしなくても必要なものくらいは買えるお金は渡されていた。
女性であれば誰もがうらやむような生活であるが、順子はそれを幸せとも不幸とも感じない、やはりただ淡々と生きているという感じだった。
そんな順子だが、ひそかに一つだけ楽しみにしている事があった。
唯一自分ではない顔を持って世の中に発信できる「ブログ」である。
今はSNSが主流だが、この時代はまだブログ自体もまだ浸透しているとは言えず、同じ大学に通う同級生の中でも早い方だった。
順子は、実際に成城に住んでいたが、このブログでは海の近くに住んでいる設定で、ちょっとアグレッシブな湘南ガールを演じていた。
あまり海へ行った事はないが、順子は「海」への憧れをずっと抱いていた。
昼間は近所のカフェでアルバイトをし、休みの日にはペットを連れて海へ行ったり、ヨガを楽しんでいる、そんな架空の生活を順子は「なぎさ」という名前で発信していた。
順子のブログは、結構アクセスが多かったようで、特に男性の購読者がほとんどを占めていた。
順子はそこまで美人とは言えない容姿だったが、奇跡的に撮れた鏡越しの自分の写真を、少し小さめにアバターに入れていた。
それは少し愛くるしくも見え、また男性からしたら放おっておけないような表情だったのもその要因かもしれない。
ブログを初めて3ヶ月ほど経った頃から、「ジン」という男からコメントが入るようになった。
順子は基本的にコメントに対して返すような事はしなかったが、何故かこの「ジン」のコメントは気になっていた。
当たり障りない他のコメントとは違い、ジンからのコメントは少し寂しさや哀愁が感じられた。
「なぎささんのブログを読んでいると、何故か懐かしい気持ちになるんです。そして少しだけ幸せな気持ちになります。」
このコメントに対して順子は
「いつもコメントありがとうございます。懐かしい気持ちになるという事は、昔海の近くに住んでいたとか?」
こうやって二人のコメントでのやり取りが始まり、やがてブログ内でメッセージのやり取りをするようになった。
順子は時々ジンのブログも覗きにいくようになり、そしてジンに対して少し興味を持つようになった。
ジンは、金沢で育ち、そのまま金沢で就職したが25歳で会社を辞め、友達づてに上京する事に。
そして、バイト先で出会ったある起業家からの誘いで会社を経営する事になり、今や50名を超える社員を抱える会社社長となる。
主に人材派遣業として成功を収め、更に新たな事業を模索しながら有意義な生活を送っている、まさにイケイケの30代男子だ。
順子は、一人で上京してきてバリバリ仕事をこなすジンを格好いいと感じ、またそのやさしさに惹かれていった。
都会で忙しくしているジンにとっても、湘南でマイペースに過ごす「なぎさ」に惹かれていった。
ある時ジンは会いたいと言ってきた。
もちろん順子も同じ気持ちだったが、ブログの「なぎさ」とは違い、都内に住むただの女子大生。
本当の事を言っても良いのだが、ジンは海が好きで、海と共に生きている「なぎさ」の事を気に入っているのだ、という気持ちが強く、どうしても言い出せなかった。
順子は何かと理由をつけ断り続けていたが、そんな順子にジンはどんどん惹かれていった。
そして順子は嘘をつき続ける事を決めた。
お互いの自宅からちょうど良い場所にある横浜で会う事になった。
順子は「なぎさ」として少しブログに顔を出しているが、ジンは一切顔出しをしていない。
待ち合わせをしているが、お互いに気づけるかどうかわからない。
一応電話番号を交換しているが、できれば電話をかけなくてもお互いに解り合いたいと思っている。
待ち合わせ場所は、山下公園の「赤い靴履いてた女の子像」前。時間は13時。
ジンは15分前に到着していた。
人を待たせるのが嫌いな性格なので、いつも待ち合わせは15分前に着くようにしているが、待たされる事はもっと嫌いなので、5分以上待たさせると相手に嫌味を言う事もある。順子は5分前にやってきた。
それは一瞬にしてお互いをお互いを確認できた。
「なぎささんですか?ジンです、はじめまして」
「はじめまして、なぎさです」
ジンの順子への第一印象は、思っていたイメージよりも地味で、そこには小洒落た湘南ガールの姿はなかった。
しかし、その純粋そうで透き通るような白い肌は、ジンには少し眩しくも見えた。
順子のジンへの第一印象は、思った通り仕事ができそうで、清潔感があり、何より緊張した笑顔がとてもキュートに見えた。
二人は、天気の話しなど当たり障りない話をしながら近くのカフェに入る。
インターネット上で知り合い、そこで何度もやり取りをした後に実際に会うというのは、思っているよりも恥ずかしく緊張するものである。
そして、カフェに入ったこの二人もよそよそしく、相手の目を見て話せないほど緊張している。
ジンはアイスコーヒー、順子はジャスミンティーを注文した。
「でも、いいなぁ、なぎささんは、海の近くに住めて」
その言葉に順子はドキッとした。実際に海の近くになど住んでいないという嘘が急に胸を締め付ける。
「そうですか?、毎日見ていると飽きるものですよ」
ジンはようやく順子の目を見て微笑んだ。
二人は横浜という開放的な雰囲気にも助けられ、少しずつ会話もスムーズになり、ブログの話などで盛り上がった。
一時間ほどいろいろな話をしたあと、山下公園を散歩し、日が暮れる前に二人は解散した。
お互いにお互いの印象はとても良かった。
ただ順子は、嘘をついてしまっている事に対し、罪悪感が頭から離れなかった。
告白
それから毎日二人はブログを通してのコミュニケーション、またメールでのやり取りをしていた。
もう、お互いにお互いの気持ちはわかっているが、なかなか進展するそぶりもない。
でも、実際付き合い始めて恋愛に発展するまでの一番楽しい時期なのかもしれない。
ある時ジンがあるメールで先陣を切った。
「ちょっと実際会って話したい事があるんですが、また会えますか?」
順子はわかっていた。
おそらく告白されるだろうという事、そして、どういう返事の仕方をするのが良いのか、うそをつき通すには限界があり、何を話せば良いのか。
今まで恋愛経験もない順子にとって、恋ができるという期待と不安、そして「嘘」という色々なものが入り混じり、ある意味パニックになっていた。
ジンに返事を返すのに丸一日要した。
「もちろん会えますよ、来週の土曜なら空いてます。話し、、気になりますね^^」
「ありがとうございます!楽しみです^^」
順子はそれからも毎日ジンの事を考え、また悩んだ。
もし付き合うにしても、ずっと嘘をつき通す事は不可能であり、どこかのタイミングで必ず告白する必要がある。
かと言って、このタイミングで嘘をついていた事を知られれば嫌われてしまう。
そんな葛藤の中、二人の会う日がやってきた。
今回の待ち合わせ場所は横浜ではなく、日本橋人形町にした。順子の希望だった。
順子は人形町など下町の雰囲気が好きであり、また少し歩けば浜町公園や隅田川沿いを散歩できる為、デートコースにはもってこいだとずっと思っていた。
待ち合わせ場所は、人形町駅のA1出口を出たところにある、からくり時計前にした。
今回は順子の方が先に到着していた。
というのも、順子はすでに午前中から人形町へ来て、神社へ行ったり、甘酒横丁のお店に入ったり観光を楽しんでいた。
しかし、ただ楽しんでいた訳ではなく、時間をかけて覚悟を決めていたのだ。
「なぎささんお久しぶりです!待たせてしまってすみません。」
ジンが後ろから声をかけてきた。
順子は精一杯の笑顔で振り返り、全然待っていないと答える。
「この道を真っ直ぐ行くとすぐ隅田川に出れるんです、ちょっと歩きません?」
ジンは笑顔で顔を縦に振り一歩先に歩き出す。
土曜日の新大橋通りは人通りや車が少なく、平日より少し静かになるのが印象だ。
隅田川まで徒歩10分程度だが、二人にとってのこの時間がとても長く、天気の話など当たり障りない話で時間を埋めた。
隅田川に到着した二人は、川沿いのテラスを浅草方面に歩き出した。
どちらが方向を決めた訳ではなく、自然とその方向に向かっていく。
3分ほど無言で歩いたところでジンが足を止めた。
「なぎささん、なぎささんに話があるんです。なぎささんと何度もやり取りしていくうち…」
「ジンさんごめんなさい。私、ずっと嘘をついてました。」
ジンの言葉を遮って順子が喋りだす。
ジンはあっけに取られたような顔で順子を見つめる。
ジンからすれば、天気の良い土曜日の午後にスマートな告白をして、おそらくOKをもらえるだろうとたかをくくっていたが、まさか告白の途中で遮られるとは思うはずもなく、ただただ呆然とするしかなかったのだ。
順子は一呼吸おいて続けた。
「私の名前は順子。名前だけじゃなく、今までの話、ほとんど嘘なの。」
順子は続けた。
「私は海の近くになんか住んでいないし、住んだ事もない。犬も飼っていなければヨガもした事ない、私は都内に住む普通の大学生です。」
ちょっと冷たい感じで話した順子の言葉にジンは余計に戸惑った。
順子は冷たく話そうとした訳ではないが、嘘を告白する事への緊張と罪悪感でそうなってしまった。
「ジンさん、本当にごめんなさい。ジンさんに嘘をつくつもりはなかったんだけど、自分じゃない自分でブログをやる事にハマってしまって。ジンさんに会う前にその事話そうと思ったんだけど、がっかりして会ってくれない気がして。本当にごめんなさい。」
二人の間に少しの沈黙が流れた後、ジンが口を開いた。
「順子、さん。さっきの僕の話の続き聞いて下さい。順子さんと何度もやり取りしていくうちに、どんどん順子さんの事が気になって、気づいたら好きになってました。僕は順子さんがどこに住んでいようが何をしてようが気持ちは変わりません。そんな事どうでもいいです、僕と付き合って下さい。」
順子は泣いていた。嬉しいのか恥ずかしいのか、情けないのか、色々な感情が入り混じっていた。
ジンのその言葉をそのまま受け入れる事がなかなか出来ず、ただその場で泣いていた。
ジンはそんな順子を察してそっと抱き寄せた。順子にとって初めての恋が始まった瞬間だった。
交際
二人は順調に交際を続けていた。
ジンの仕事も忙しい為、なかなか会える日は少なかったが、毎日連絡を取り合い愛を育んでいた。
ジンは順子にとても優しく、そして順子もジンの事を良く理解していた。
とにかく、順子は初めての恋愛という事で全てが新鮮で、時々ジンの事以外何も見えなくなる時がある。
毎日学校へは行っていたが、ジンへ手紙を書いたり、将来の事を考える日々だった。
そんな様子を順子の母親が気づき、心配して順子に話しかける。
「順子、誰かと付き合ってるでしょ?わかるわよ、どこの誰なの?」
順子は少し鬱陶しいというような顔をしたが、やはり嬉しいのだろう、ジンとの事を話した。親と言えど女同士なので話しやすく、誰かに話したいという順子の欲求もあったのでちょうど良かったのである。
ただ、それが父親に知られる事とは意味が違い、それは面倒な事となった。
「お父さんに順子と彼氏の事話したら、ちょっと機嫌が悪くなったわ。」
「なんでお父さんに話すの!? そんなの怒るに決まってるじゃない!」
順子は本気で怒った。
別に内緒にし続ける必要はないと思ったが、今ではないと思っていた。
順子の父はとても真面目でおとなしく、家でもほとんど話しをしない。ただ、教育に関してはうるさく、特に一人娘が年頃になっている事にも敏感になっていた。
順子の父親は順子を部屋によんだ。
「順子、お前付き合っている人がいるのか?」
順子はだまっていた。
だまっていても何も始まらないのはわかっていたが、父親に何かを話す事も恥ずかしく、また何から話していいのかわからなかったのだ。
沈黙が流れる。
「順子も年頃だから、そういう事もあるだろう。だけどお父さんは心配なだけだ、今時はろくでもないヤツが多いからな。」
「ろくでもなくないわよ!何も知らないくせに!」
順子は声を荒げた。
その目は少し潤んでいたが、悔しいだけでなく、ジンが恋しくてたまらなくなっていた。
「都内で会社を経営している立派な大人よ、若いのに凄く頑張っているわ。とてもいい人だから心配しないで。」
父親は、少し間を置き、鼻から大きなため息をついた後こう言った。
「別に反対はせんよ、ただ、ちゃんとしたお付き合いをするなら一度お父さんに合わせなさい。」
順子は驚いた顔で父親の顔を見た。
「今度、週末にでもうちに連れて来なさい、みんなで食事しよう、その彼はお酒を飲むのかい?」
順子は涙を拭きながら大きく頷いた。
彼氏と父親が会うとか、家に来るとか想像すらしていなかった事なので、どういう反応をすれば良いかわからなかったが、順子は素直に嬉しかった。
ジンを認めてくれたら、こんな幸せな事なない、順子は不安と嬉しさで妙なテンションになっていた。
その日に順子はジンに電話をした。
まだ仕事中だとわかっていながらフライングで電話してしまった為、後から少し驚いたようにジンからかかってきた。
「順子ちゃん?ごめん電話取れなくて、何かあった?」
「ごめんなさい、仕事中に、、今日お父さんにジンさんの事話したの。そしたら、一度家に連れて来てって、一緒に食事しようって。」
ジンは一瞬戸惑ったせいか、すぐ言葉が出てこなかった。
「急にびっくりだよね、でも、私もお父さんに会って欲しい、堂々とジンさんと付き合いたいの。」
ジンはもちろんいいよと伝えた。
しかしジンは不安になっていた。ジンも、父親に会うという行動は結婚する時にするものだと思っていたので、まさかこんな早く会うなど思ってもみなかった。
そしてその日はやってきた。
土曜日にジンが休みが取れた為、昼間は順子とデートをし、夜順子の家で食事をする予定になっていた。
ジンは、順子の家にお土産を買いたいと言っていたので、父親・忠雄の好きなものをこっそり教えた。
忠雄はそんなに酒飲みではないが、芋焼酎が好きで良く一人で飲んでいる。
二人でデパートへ行き、「赤霧島」と「三岳」を買った。
ジンは緊張していた。順子と話している時もどこか上の空で笑いかたも不自然だった。
夕方の5時になったので二人は順子の家へ行く事に。
小田急線の「成城学園前駅」で降り、10分ほど歩いたところに順子の家があった。
ジンはびっくりした。
成城に住んでいるのである程度お嬢様だと思っていたが、まさかこんなに豪邸とは思っていなかった。
そう、順子の家はかなりの豪邸だった。
立派な玄関を当たり前のように順子は入っていった。
「ただいまー、今帰りました」
順子は入ってと手招きをするが、順子の顔も緊張していた。
ジンはかなり緊張していた。生まれて今までこんなお金持ちの家に来た事はなく、また、あらためて金持ちの子と付き合っていると実感したのだ。
靴をもっと磨いてくるんだったと少し後悔しながら靴を揃え、フワッとした今まで履いた事もないようなスリッパを履く。
順子の手招きをされながらリビングルームへ向かう途中も、今まで匂った事ないような香りや、見た事ないような絵が、ジンの体をかすめていく。
30畳ほどのリビングルームへ入ると、お母さんらしき女性が笑顔でこっちを向き、挨拶をしてきた。
「ようこそいらっしゃい、順子の母です。」
「始めまして、、上野と申します、上野ジンです」
広いリビングだったので声が通らないと思い、必要以上に大きな声が出てしまった事に少し恥ずかしくなった。
順子はここに座ってとジンを誘導する。
やや猫背気味のジンだが、さすがに背筋は伸び切っていた。
順子は母親・佐知子とキッチンに消えていき、佐知子の手伝いを始めた。
ちょっとくつろいでいてと言われても、そんなくつろげる訳はなく、手にはびっしょり汗をかいていた。
5分ほどそんな状況が続いたあと、廊下を歩いてくる足跡が聞こえ、背中からリビングを開ける扉の音が聞こえてきた。
「ようこそいらっしゃいました」
後ろを振り向くと、そこに順子の父親らしい男性が笑顔で入ってきた。
ジンの想像だと、金持ちのお父さんは少し大柄でお腹が出ていて、どこか威圧的な雰囲気を出しているものと勘違いしていたが、順子の父は身長は普通だがとても細く、どちらかというと、オシャレなBARのマスターのような雰囲気だった。
ジンにはとても優しそうに写っていた。
ジンは慌てて立とうとしたが、父親・忠雄に手でまあまあといった感じで止められ、斜め向かいに座った。
「順子から聞いてます、ジンさんですね。ようこそいらっしゃいました。今日はリラックスして楽しんで行って下さい。」
ありがとうございますと一例したあと、視線をどこに落ちつかせれば良いのかわからず戸惑っていた。
そんな状況に順子が気づき慌ててリビングに戻ってくる。
「ジンさんごめんなさい、お父さん準備できたら呼びに行くって言ったじゃない、、」
順子は少しほっぺたを膨らませながら忠雄に詰め寄った。
忠雄はまあまあといった顔でジンの顔をちらっと見て笑っていた。ジンも緊張しながらも笑い返した。
母親はそんなに料理が上手ではなかったが、素材で勝負し、まるで高級料理店で出てくるような料理を振る舞った。
正直、ジンからすれば食べ方もわからないような料理もあり少し戸惑ったが、順子が積極的に食べてくれたおかげで順子の真似をして食べた。
会話はジンの事になった。
「ジン君はどういった仕事をしているのかな?」
忠雄が爪楊枝を探しながら質問した。
「はい、新宿で人材派遣業をしています。スタッフ50名ほどの会社を経営してますが、まだまだ雇われ社長でして、、」
ジンは少しうつむきながら話した。
「へー、立派ねー、その若さで会社経営だなんて」
佐知子が感心したようにうなずく。
それに間髪入れずに忠雄は続ける。
「で、経営を始めて何年だね、利益はちゃんと出ているのかね。」
その言葉に順子は反応する。
「お父さん、、何もそんないっぺんにあれこれ聞かなくてもいいじゃない、初対面なんだし。」
「大事な事じゃないか、娘の彼がちゃんとした仕事をしているかどうかを知るのはとても大事な事だよ」
忠雄は譲らなかった。
ジンはそんな様子を見て慌てたように
「はい、まだ3年ですが、会社の利益は、、ちゃんと出してます。」
一瞬静まり返り、順子が何かを取りに席を立った時忠雄はこう続けた。
「今度、決算報告書を持ってきなさい。」
ジンは正直びっくりした。
まさか彼女の父親に決算報告書を見せろと言われるなんて思ってもみなかったからだ。
それには、佐知子も順子も少し怒ったが、正直それが何なのかあまりわかっていなかったので、今度それを持ってくるという話しで収まった。
それからは、実家の金沢の話しや、二人の出会いなどの話しなどたわいもない話で盛り上がりその日は終わった。
嘘
ジンが順子の家に行ってからは、順子は今までよりも明るくなり、思う存分交際を楽しんでいるように見えた。
彼氏が自分の親に会ったという事もあり、なんとなく結婚を意識したりもした。
とにかく、順子にとってジン以外は考えられなくなっていた。
しかし、ジンは違っていた。
順子の父・忠雄が、思った以上にジンの仕事の事を気にし、経営状況まで知りたいとまで行ってきた事に少し戸惑っていた。
ただ、ジンは、忠雄が少し酔っていたので半分冗談だと捉えていたんだと思うようにし、その事にはいちいち触れないようにする事にした。
二人の交際はとても順調だった。
二人のデートはほとんど海だった。
別に何をする訳ではないが、車で湘南まで行き、鎌倉や江ノ島で散歩したり、とにかくそこに海があるデートを二人は好んだ。
ジンは一度だけ順子に、結婚したら湘南に住みたいと言った。
しかし、順子はそれが自分との結婚なのか、はっきり自分に言ったとは捉える事ができずにスルーしていた。
ただ、その言葉は絶対に忘れまいとも思っていた。
ある日、順子は忠雄に言われる。
「ジン君、決算報告書はいつ持ってきてくれるんだい?」
「え?本気で言っているの?」
順子は少し軽蔑した目で忠雄を見た。
「当たり前じゃないか、この先結婚だってありえるだろう、ちゃんと相手の事を知っておくのは当然の事だ。」
順子は結婚という言葉を聞いて何も言い返せなかった。
それよりも、父親が結婚の事を考えてくれているという事が少し嬉しかった。
その晩、順子はジンに電話をした。
「ごめん、お父さんが決算報告書いつ持ってきてくれるんだって、、」
「あ、ああ決算報告書ね。今度持っていくよ」
「本当!?なんかごめん、お父さんああいうとこ頑固だから」
「全然いいよ、娘の彼氏の事知りたいのは当然だよ。」
ジンは正直戸惑っていた。
なんとかやり過ごそうと思っていたがそうもいきそうもない。
ジンは、大きな嘘をついていた。
それからも忠雄は順子に催促をした。
それをジンに伝えても、なかなか忙しくて持っていけないの一点張りで、ある意味板挟みになっていた。
その事でジンとの距離が離れていく事を、順子は一番恐れていた。
それから一ヶ月が過ぎた頃、順子は忠雄の部屋に呼ばれた。
「めずらしいわね、私を部屋によぶなんて」
「まあいいから座りなさい。」
忠雄は神妙な面持ちで順子に言った。
「何よ、そんな真剣な顔して、、」
順子は、おそらくジンの事だろうと察して少し怖くなった。
「ジン君の事なんだが」
忠雄は顎の下をガリガリ掻きながら順子を見上げた。
「なかなか決算報告書を持ってきてくれないジン君を少しおかしいと思ってね、実はジン君の会社の事を調べたんだ。」
「何よそれ!勝手な事しないでよ!」
順子は小さな声だが必死で訴えた。
忠雄は冷静に続けた。
「順子にはちゃんとした人と結婚して欲しいから、そうする事は必要だと思ったんだ、許してくれ。」
順子は納得できない顔をしながらでも小さく頷いた。
「初めは、ジン君の会社の経営状況だけを知りたかった。大きな借り入れとかあると大変だからな。でも、そんな事よりもある事がわかったんだ。」「何、、ある事って」
順子は怖かった。父親の口から何が発せられるのが怖くてしょうがなかった。
「ジン君の会社は、人材派遣の会社ではなかった。父さんもびっくりしたんだが、、いわゆる、、、風俗店をチェーン展開している会社だよ。」
順子は忠雄が何を言っているのか理解できなかった。
冗談にしては面白くなさすぎるし、あまりにも現実味がなさすぎて理解するのは到底難しかった。
「ふう、、ぞく?」
順子のその言葉に忠雄は腕組みをして静かに頷いた。
順子が今まで生きてきた人生で、この風俗という言葉は使った事もなければ考えた事もない言葉である。
その言葉を発するだけで、どこか違う世界へ行っていまいそいうなほど順子には衝撃的な言葉なのだ。
「その会社を動かしている大本の事はわからん。おそらく足がつかないようにしているんだろう。ジン君はその会社の責任者として任されているんだよ。」
忠雄は続けて言った。
「順子、今の順子の気持ちは痛いほどわかる。でもな、別れるなら今だよ。早い方がいい。娘が風俗店の経営者と付き合ってるなんて知られたら大事だ。わかるよな、順子。」
順子は目に涙を溜めながらも何も発する事ができずにいた。
それからも何かを言いたそうな順子だったが、結局何一つ発する事ができず、順子は部屋に戻った。
その日、順子は部屋から出る事はなかった。
食事もいらないと言った。
忠雄も佐知子も、そんな順子を察していた。
翌日も順子は部屋から出る事はなかった。
ジンから電話が3回ほど、メールが1通あったがそれに応じる事はなかった。
おそらく、何かを考えているというより、父親から聞いた言葉がうまく理解できないままでいるだけだった。
順子が部屋を出てきたのはその翌日だった。
母親・佐知子に、お腹が空いたと声をかけてきた。
そんな順子の様子を見て佐知子はホッとした。
「私、まだお父さんから聞いた言葉、まだ理解できないの。あのジンさんが、、って。別れろって言ったって、そんな簡単に行く訳ないし、別れるなんて、いやだよ・・。」
順子はか細い声で佐知子に訴えた。
佐知子は何も言わずトーストを焼いている。
「今すぐどうこうっていうよりも、まずジン君とじっくり話し合ってみれば? 何かの誤解って可能性もあるじゃない。」
そうね、と言って順子はうつむいた。
その日、順子はジンにメールをした。
ーーージンさんごめんなさい、連絡しなくて。ちょっと体調を悪くして自宅で寝込んでいたの、でも大丈夫。また連絡するね、ごめんなさい。ーーー
ジンは少し感づいていた。
ただ、忠雄が自分の会社の事を調べ上げるなど、そこまでは思っていなく、決算報告書を持っていかない自分を順子も不審がっているんだろうと思うまでだった。
覚悟
それから3日ほど順子はジンに連絡を入れる事はなかった。
ただ、何を話せばいいのか、何を聞けばいいのか、それを聞いたところでどうすればいいのか、何もわからなかったからだ。
とてもジンに会いたかった。
何事もなく、ジンと湘南の海で遊んでいた事が遠い過去のように思えてきた。
それでも順子はどこか諦めてなかった。何かの間違い。小さな可能性も信じていた。
そして順子は覚悟を決めた。
4日目の夜、順子はジンに電話をした。
留守番電話になったが、すぐジンからかかってきた。
「もしもし、ジンさん? お久しぶり、ごめんね、やっと体調がよくなってきたから電話したの。今大丈夫?」
できるだけ平然を装った声で話す。
「もちろん大丈夫だよ、、それよりも順子ちゃん大丈夫?病院へは行った?」
ジンも当たり障りない言葉で返す。
「ううん、大丈夫、それより、今度またお休みの時会えるかしら。できれば、鎌倉に行きたいな。」
「もちろんいいよ、じゃあまた土曜日でいい? 車で迎えに行くよ。」
順子はジンの変わりない優しい言葉に少し安心した。やはり何かの間違いかもしれない。そう思う気持ちが強くなった。
土曜日の朝10時頃、順子の家の近くのコンビニで待ち合わせし、ジンの車で湘南へ向かった。
車の中の会話は、いつもより少なかったが、順子は学校の話しなどを中心に積極的に話していた。
ジンも、それをなるべく自然な笑顔で聞いていた。
朝比奈インターで降りて、鎌倉市内を通り、由比ヶ浜に出たのはちょど正午頃だった。
お昼ご飯の時間帯だった為、二人は七里ヶ浜にあるパシフィックドライブインに行く事にした。
土曜日という事もあり駐車場もかなり混雑していたが、波も良かった事もありほとんどがサーファーらしき人達だった。
お店に行くと人がたくさんいたが、テイクアウトで並んでいる人が多かったものの店内には空きがありすんなり入る事ができた。
二人は同じものを頼んだ。
順子はいつも先にジンに選ばせて、必ず「同じもの」と言う子だった。
順子にとって、何を食べるとかではなく、ジンと一緒に食べる事に意味があり、それは何でもよかった。
そして、ジンと同じものを食べる事に幸せを感じていた。
この日もやはり、順子はそういった幸せを少し感じていた。
食事を終えた二人は、そこから浜辺まで降りて散歩をする事に。
稲村ヶ崎方面に歩くと少し人が少なくなり、順子は波のすぐそばまで行き座り込んだ。
そんな順子の行動を一部始終見ながら、ジンも順子の隣に座った。
「順子ちゃんはホント海が好きだよね。」
順子は膝に顎をつけたまま小さく頷いた。
「ジンさん、今日はちょっと聞きたい事があるんだけど、、」
ジンに聞こえるか聞こえないかの声で話しかける。
「うん」
ジンもまた小さな声で返す。
それから少し沈黙が続いた後順子は切り出した。
「お父さんがね、、ジンさんの会社の事調べたって。」
ジンは海を見つめたまま1ミリも動けないでいた。
「で、なんて?」
目を細めながら、精一杯出た言葉だ。
「ジンさん、人材派遣の会社って言ってたじゃない? そう聞いたから私もそれを信じてた。でも、、、、」
そこから次の言葉が出てこなかったが、順子が何を言おうとしているのか想像はついたし、それ以上順子の口から言わせる事は違うと思った。
「すごいね、お父さん。じゃあ、全部聞いたんだね。」
「本当なの!? 嘘って言ってよ!」
順子は少し震えた声で叫んだ。
「本当だよ、ごめん、騙すつもりはなかった。」
「なんで、、なんでなの? 私、まだどういう事か理解できないのよ、、」
ジンは諦めたかのような顔で話しだした。
「僕は、順子ちゃんが思うような立派な人間でも何でもない。そんな仕事をしながら、それを隠しながら平然と順子ちゃんと付き合うようなどうしようもない人間だよ。順子ちゃんに知られたくなかった。絶対に、そんなんじゃ付き合ってくれないと思ってたから言うのが怖くてたまらなかった。付き合い出して、立派な家やお父さんやお母さんに会ってますます思った。でも順子ちゃんの事本当に好きだし、僕の中でずっと葛藤してた。苦しかった。でも、、僕はこの仕事を辞める事はできないんだ。」
「何で?!汚らわしい!そんな仕事しながら私と良く会えたわね!」
順子はおそらく生まれて今までで一番の大声を出して言った。
「順子ちゃんみたいにお金持ちに育った子にはわからないんだよ、人間生きていく為にそういった仕事でもやらなければ駄目な時があるって。」
順子は震えたまま立ち上がった。
「バカみたい、、、そんなの言い訳よ、私が悪いみたいに言わないでよ! ホントに汚らわしいわ!」
ジンは何も言い返せなかった。
そして、順子の砂浜を歩く足音が遠ざかっていくのを感じた。ジンは動く事が出来なかった。
周りが薄暗くなるまでジンはそこに座ったまま動かなかった。
ずっと泣いていた。
何よりも、もう順子に会う事ができない、と思う事がジンにとって辛すぎた。
ジンは本当に順子を愛していた。
それから1時間ほど海にいたが、ゆっくりと立ち上がり駐車場へ向かった。
車についてもどこにも順子の姿は見えなかった。
携帯電話には、順子から「電車で帰ります、さようなら」という一通のメールのみが入っていた。
別れ
それから順子とジンは連絡を取り合う事はなかった。
順子は正直、ジンを忘れる事はできなかったが、ジンの口から話された衝撃がどうしても受け入れる事ができなかった。
何度も、ちゃんと会って話そうと思ったが無理だった。
また、ジンから一度も連絡がなかった為、順子は自分の事が嫌いになったんだと思っていた。
順子は少しずつ前の生活に戻っていった。もちろんブログはやめた。
ただ、それを消してしまう事はできなかった。ジンのと出会いの事を思うと、そうする事はできなかった。
それから一ヶ月ちょっと経ったある日、しばらく更新していないブログに一通のメッセージが入っていた。ジンのアカウントからだ。
何を今更、という気持ちと、なんでメールではなくブログのメッセージなのか、順子には理解できずにいた。
メッセージを開くかどうか迷ったが、結局開く事にした。そこにはこう書いてあった。
「なぎささん、はじめまして、私は後藤というもので、上野の友達です。こんなメッセージでびっくりされたかと思いますが、ちょっとお話ししたい事がございまして、一度お会いする事はできますでしょうか?」
順子は謎でしょうがなかった。何故友達?何故ブログから?
ただ、そこにはその後藤という人間の連絡先や住所、職場まできちんと書かれており、それに誠意を感じた為順子は応じる事にした。
待ち合わせ場所は、渋谷の宮益坂上交差点を表参道に向かって10分ほどにあるカフェだった。
順子はカフェの入り口までいくと、その後藤という男に電話をかけた。
「もしもし、順子、いや、なぎさです。今入り口にいます。」
するとすぐ一人の男が店から出てきて、こちらですと順子を誘導した。
席に座ると、順子はジャスミンティーを注文した。男は既にコーヒーをおかわりしているようだった。
「すみません、なんか急に変な形でお呼び立てして。」
男は清潔感がありながらも、ちょっと無精髭で、また田舎臭い感じも少し漂っている、あまり順子が出会った事のないような感じの男だった。
「はい、、で、私に何の御用ですか?しかも、ジンさんのアカウントからとか、、ちょっと良くわからないんですが。」
順子は淡々と伝えた。
「そうですよね、本当にすみません、、ちょっと唐突であれなんですが、、ジン、死んだんです。ご存知、なかったですよね?」
順子は、この人は何をしゃべっているのだろうと不思議そうな顔で後藤を見つめていた。
「で、、ジンの部屋を片付けている時、パソコンを見つけて開いたんです。そしてらあいつ、ブログとかやってて、いや、その、僕は今金沢に住んでいて、何かジンの事少しでもわかる事ないかって、、」
後藤は続けた。
「1ヶ月くらい前、あいつ車で事故って死んだんです。高速道路で。160キロ出してたらしです。ちょうど事故ったのは神奈川の幸浦インターってとこあたりだったらしいんですけど、なんで夜に一人でそんなとこ、そんなスピード出して走ってたのか、、、」
男は続けた。
「ジンのブログのやり取りで、なぎささんと親密なやり取りをしているのがわかって、もしかしてなぎささん、何か知っているのかなって。僕、ちょっと考えたんです、なぎささん、湘南に住んでますよね、なんで、もしかしてなぎささんに会いに行った帰りだったのかなって。」
順子の表情は変わらなかった。そして一点を見つめたまま口を開いた。
「私、湘南になんか住んでません。東京に住んでます。」
「あ、そんなんですか?ブログでは湘南に住んでるって、、上野とのやり取りでもそんな感じだったんで。」
順子は初めて後藤の顔を見た。
「あなたインターネットとかあまりやらないですか?ブログとかやっている人は、本当の自分を隠して偽ってコミュニケーションとってる人が多いの。私が嘘ついているとか、そういう目で見ないで下さい。」
後藤は少し焦った声ですぐ返した。
「あ、すみません、そんなつもりじゃなかったんですが、、あいつ、携帯も潰れちゃってて、、何も、わからないんです。 なんか嫌な思いさせちゃってごめんなさい。」
「とにかく、私は何もわかりません。ごめんなさい、失礼します。」
順子は席を立って店を出た。
青山通りを渋谷駅方面に向いて足早に歩く。でもその速度はどんどん遅くなり、ついに止まった。
「ジンさんが死んだなんてうそ、、、」
順子が出した吐息のような声は、大都会の雑音に消されていった。
真実
順子は大学を休みがちになっていた。
今まで当たり前にあった生活や楽しい気持ち、大好きな人、それがある日突然こんなにもあっけなく、全て消えてしまうものなのかと、人生の怖さについても考えていた。
そして何より、ジンが死んだのは自分のせいなんじゃないかと思うと、精神的に少しパニックになりかける事もあった。
ーーきっとやけになって車を飛ばしすぎたんだ、私が一緒に帰っていればこんな事にーーー
ーーそもそも、自殺したんじゃないのかーー
若い順子にとって好きな人の死や、自分を責める気持ちが重すぎた。
順子は、もう一度その後藤という男に会う事にした。
一人で考える事への限界と、唯一ジンと自分と繋がっている人間と会う事によって救われる気がしたからだ。
順子は後藤に電話をしたが、後藤は既に金沢に帰っていた為、会う事は難しいと言われた。
順子は金沢に行く事を決めた。
実は順子は、中学1年生の時1度だけ金沢に行った事がある。
家族旅行で、北陸3県を回ったのだ。
母・佐知子が旅行好きで、国内だが年に1回家族で旅行に行っていた。
順子は一人っ子だったので、家族での旅行は遊園地に行く以外ほとんど面白いと感じた事はなく、あまり記憶にも残っていない。
ただ、金沢に行った、という事実は覚えていた。
金沢に行く事を父・忠雄は快く思っていなかったが、自分の行動が発端でこうなった事や、佐知子の説得もあってしぶしぶ了承した。
後藤は夕方まで仕事の為、会って話すのは夕食を食べながらという感じになった為、14:50分羽田発の飛行機で行く事にした。
宿は金沢市中心部にあるビジネスホテルを予約した。ビジネスホテルに一人で泊まるというのは順子にとって初めての事だった。
羽田から小松空港は片道1時間の為、若干飛行機が遅れたものの、16時過ぎには小松空港に到着し、そこから金沢駅西口まで出ているリムジンバスに乗り継いだ。
小松ICから北陸自動車道に乗った時、左側には日本海が広がっているのが見えた。
順子は思わず海に見入ってしまった。
若干いつも見ている太平洋とは違えど、湘南の海を見ているような感覚になった。
おそらくジンは、いつもこの海を見て育ったんだと、また、湘南の海を眺めながら、故郷の海を思い出していたのかもしれない。
同じ湘南の海を見ていた二人でも、見えていたものは違っていたのかもしれない、と順子は思った。
17:30頃金沢駅西口に到着し、そこからは徒歩でホテルへ向かった。
チェックインを済ませ部屋に入る。ビジネスホテル独特の匂いや雰囲気が新鮮だった為、少しドキドキした。
順子は少し硬めのベッドに腰掛け、後藤からの電話を待った。
後藤から電話が入ったのは18:30頃だった。
ホテルの前まで迎えに行くという事で、少しだけ化粧直しをしてホテルを出た。
後藤は既に来ていた。
「順子さんお久しぶりです!なんかわざわざすみません、こんなところまで、疲れてないですか?」
前回会った時よりかなり明るい印象に見えた。
「いえ、飛行機だと早いもので、全然疲れてないです。こちらこそ忙しい中押しかけてすみません。」
順子は前回カフェを飛び出してしまった事を少し申し訳なく思っているのか、必要以上に謙虚な感じで接した。
後藤が予約していたお店は、そこから徒歩5分くらいの場所にある居酒屋だった。
一見どこにでもあるような居酒屋だが、金沢に来ているというだけで順子にはそうは見えなかった。
順子はウーロンハイ、後藤はハイボールを注文した。
ビールではなくハイボールを注文するのはジンと同じだった。
「金沢の人はビールをあまり飲まないの?」
順子の言葉に後藤は何か思い出したように言った。
「そういえば上野もハイボールだったっけ?いや、たまたまだと思うよ。」
お互い少し笑い合って和やかな雰囲気になった。
後藤がオススメの料理や、金沢で穫れる魚の話をしたあと、後藤からジンの話しを始めた。
「あいつ、小学生の頃からの幼馴染なんです。」
順子はあえて後藤の顔を見ずに、グラスの水滴をおしぼりで拭いた。
後藤は続けた。
「あいつは昔からホントに優しいヤツでしたよ、俺と喧嘩も一度もした事なくて、上野は我慢する性格だから。反抗期みたいなものもなかったんじゃないかな。多分。でもあいつんち、なんていうか凄く貧乏で、お母さんが早くに病気で亡くなって、お母さんが亡くなってからお父さんも仕事辞めちゃったりして、いわゆる生活保護みたいなものを受けてながら生活してたと思う。ジンには年が離れた弟がいたんだけど、責任感が強いジンは、自分がしっかりしなきゃと思っていたんでしょうね、、中学生の頃から新聞配達や牛乳配達とか、朝早くからできるアルバイトをしていましたよ、同級生の俺なんかからすると考えられなくてね。そんな働くジンが。高校生の3年間もずっと続けてて。高校卒業してすぐ地元の農協で働き出したんですが、その時からジンは、もっと稼げる仕事をしないといけない、っていつも言ってました。金沢はまだまだ東京なんかと比べると給料も安くて、貧乏な環境で育ってきたジンは、ちょっとお金しか信じられないっていうような感じになってたと思うんですよ、で、結局東京へ。」
後藤は、そこまで一気に話したあと、ハイボールの氷を口に含んでゆっくり噛んだ。
「ジンの仕事の事、なんていうか、、何か聞いてます?」
ジンは目線を合わせずに言った。
「はい、聞きました。っていうか、それを聞いて喧嘩したんです。湘南の海で、それで、その後、、」
順子も自然と目線が下になっていく。
「なるほど、、そうなんですね、その事、初めて知りました。」
順子は少し硬まったままだった。
「あの時、いや、後藤さんと初めて会った時は動揺しちゃてて、ごめんなさい。」
「いや、いいんです、そんな事突然聞いたら誰でもそうなりますよ。でも、それが最後だったなんて、ちょっと悲しいというか。」
ジンは少し悔しさを滲ませたような顔になった。
「上野が東京に行ったあと、あまり連絡を取らなくなったなんですが、一回だけ金沢に帰ってきた事があって、その時相談に乗って欲しいって言われたんです。上野から相談に乗って欲しいなんてホント珍しいなと思いました、その時は。上野は、仕事の事で変な契約しちゃったと悩んでました。それが例の。ジンは東京行ってアルバイトしてたみたいなんですが、バイトを辞めた先輩からある人を紹介したいと言われて会ったらしいんです。その人は、人材派遣会社を経営する人で、その中の一つの会社を任せたい人を探してるって。上野は、アルバイトでも社員以上に頑張ってると思ってたから、そんな上野を先輩は買ってくれたんだと嬉しかったらいしいです。上野は、成功への道が見えたと思ったんでしょうね、父親や弟にいい生活をさせてあげられる、、今考えると、そんないい話しがある訳ないんですが、その時のジンの気持ち、わかるんです。」
後藤はそこまで話した後、店員を呼んでハイボールのおかわりを注文した。
「で、結局、その会社の仕事内容があまりよくわかってない段階で、契約書にサインして、代表取締役として登記されたらしいんです。その会社が、都内で10店舗以上ある風俗店の会社で、ちょっとグレーなサービスをしていたから、実際の経営者は影に隠れる為、仮の経営者を表に立たせたという話し。実際その仕事にかかわる事は一切ないらしく、ただ、何もしなくても役員報酬として月に20万円ほど振込まれるという、ちょっとその時の俺からすると羨ましいなと思ったくらいです。契約期間は5年間だったので、その時俺は上野に、ラッキーだな!って話したの覚えてます。上野は俺にそれを話して少し楽になったみたいで、次の日東京に帰っていきました。 上野から連絡があったのはそれから3年ほど経った最近なんですが
、上野はその報酬をずっと貯金しているらしく、契約期間が終わったらそれを資本金にして介護関連の会社を立ち上げるって。その為に、介護の資格を取ってアルバイトしてるって言ってました。今、、好きな人がいて、2年後に契約期間が終わったらプロポーズしようと思うって。」
後藤は順子を覗き込むように最後は少し小声になった。
順子は動けなかった。
「そんな事言われても、、」
順子はジンが恋しくてたまらなくなった。
「上野が悪いんですよ、全部。」
後藤が言える唯一の言葉だった。
順子はビジネスホテルの真っ暗の部屋で少しシミがかっている天井をずっと見ていた。
ジンの事、どう自分の頭の中で処理をしていけばいいのか全くわからなくなった。
あの時点でジンの仕事を調べた父親を恨んでみたりもした。
裕福な自分の家庭を恨んでみたりもした。
あの最後の海で、ちゃんとジンと話し合わず帰ってしまった自分を恨んでみたりもした。
全部隠していたジンを、突然死んでしまったジンを恨んでみたりもした。
自分は何をどうすれば良かったのか、でも、もうジンはいない。
いつまで心の中にジンがいるのか、この先どうやって生きていけば良いのか。
順子は、自分も死のうと決めた。
スタート地点
「え、、順子さん冗談きついっすよ」
俥夫の陽一は引きつった笑顔で振り向きながら順子に言った。
突然死に場所を探してるって、ホント面白くない冗談はやめて欲しいと少しイラッともした。
「ずっと探してたわ、死に場所を。でも、そう簡単には見つからないものなのね。」
陽一は半分聞いていないふりをしながら走っていた。
あれから順子は、大学を卒業した後2年ほど引きこもり、その後美容関係の会社に就職したものの長続きはせず、また、父親のコネで他の会社でも働いたが決して長続きはしなかった。
そして12年の月日が流れ順子は35歳になろうとしていた。
そんな順子だが、最後に仕事をしていた金融関係の会社で出会った年下の男と交際する事になり、数日前プロポーズされていた。
順子は、ジンへの想いを、またあの時に止まったままの時間をどう処理して良いかわからないままでいた。
湘南へはジンと最後に来た時以来来ていなく、また他の海を見る事もない生活をしていたので、稲村ヶ崎を超えて海が見えた時はまるで急に懐中電灯で照らされたような、そんな眩しさが飛び込んできた。
そして順子は、パシフィックドライブインまで行って欲しいと陽一に伝えた。
陽一は、何かソワソワした面持ちで走り続ける。
左に海を眺めながら、134号線を人力車が走る。
順子を乗せた人力車はパシフィックドライブインに到着した。
平日の朝という事もあり、そこまで人はいなかったが、陽一はそれでも人が少ない場所を選んで車を止めた。
順子は降りようとせず、ずっと海を眺めている。
陽一は、順子が何か話し出すまで黙っておこうと決めていた。
「昔、ここで彼氏と喧嘩したの。」
陽一は順子の顔を見る事はせず、海を見ながら答えた。
「海で喧嘩をするカップル、仲直りするカップル、プロポーズするカップル、たくさんいますね。」
順子は少し微笑んだ。
「その彼氏は、それから会う事なく死んでしまったわ。」
陽一は目線を海に向けたままだった。
「もう12年経つけど、ここは何も変わらないままね。」
順子は続けた。
「今までどういう気持ちで生きていけばいいか考えながら生きてきたわ。でも、わからない。あの時を知っているこの海が答えを知っていると思って来たけど、やっぱりわからない。」
陽一は順子に目線を移した。
「この海には、毎年何万組のカップルが来て、同じ海を見ながら話して、笑って、泣いて。ずっと昔からこの繰り返しですね。僕の人力車のお客さんでも、人力車の上で喧嘩して、彼氏だけを残して帰った女の子がいたり、人力車の上で海を見ながらプロポーズしたり、色んな人の人生を見てきました。それは、その人達の始まりだったり、終わりだったり。でもそこにはいつもこの海があって。誰がどんな人生を歩もうが、色んなものも受け止めながらずっとここにいて、いつの時代も生きている。」
順子は人力車を降りようとしたので、陽一が手を貸しゆっくり降りる。
「あなたの言う通りだわ、だからずっと私、海が好きなのよね。」
陽一は少し微笑んだ。
「順子さんは今生きています。とても悲しい事があったかもわかりませんが、順子さんは生きてます。だから、走り続けてとは言いません、歩いてでも、少しでも前へ。僕も、この仕事でも走ってばかりじゃなくたまには歩きますよ。でも、前に進まないと始まりませんからね。」
陽一は少し得意げに笑って言った。
順子は防波堤に手をついたまま顔だけ振り返り、陽一を見て微笑んだ。
「なんか偉そうな事いっちゃいましたが、また、この海からスタートしません? 順子さん」
ーーこの海からスタートーー
この言葉に順子は反応した。
海に想いを寄せてブログを始め、ジンと出会い、そして海で終わってしまった。
でも、今、この海風を全身に浴びながら、またスタート地点に立てたような気がした。
ーー走らなくてもいい、歩いてでも前へーー
順子は、ここでゆっくりしたいと陽一に言って、お代を手渡した。
「ありがとう、あなたは素敵な俥夫さんね。色んな人の人生、そしてこの景色を見ながら走るって素敵な仕事。」
また来るわと陽一に告げ、順子は砂浜へと降りていった。
陽一は砂浜までたどり着くのを見届けたあと、人力車を引いて、いつもより軽い足取りで鎌倉駅まで走った。