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この記事に来て頂いた方は、ご自身、又は身内の方、職場の方などが、うつ病で苦しんでいる、そして仕事の心配をさせている事とお察しします。
私は今から15年ほど前に、都内のメンタルクリニックで「適応障害・パニック障害」と診断され、約3年間抗うつ剤を飲みながら治療した経験があり、少しでもアドバイスできる事があればと思い書いております。
もちろん専門家ではないので、専門的な事はお話しできませんが、うつ病から抜け出し、9年間会社経営を順調に続けている今の私だからこそお話しできる事があると思っております。
私がメンタルクリニックに診察に行こうと思ったきっかけは、その際、雇われ社長として責任ある立場で働いていたにも関わらず、会社に行きたくない、何をするのも面倒くさい(お風呂など)、食事をするが、消化されていない感覚が続き胃の痛みを感じる、といった症状が出てきた為です。
すぐにクリニックに行った訳ではなく、胃の痛みから、まず胃の検査をしに総合病院へ行きました。
まずいバリュームを飲み、グルングルン回る機械に乗せられました。
とても不安でしたね。
しかし、ドクターから
「こんな綺麗な胃は久しぶりに見た」
と言われ、あっけにとられたのを覚えています。
「こんなに胃の痛みを感じるのにおかしい」
それから色々とインターネットで調べたところ、精神科に行った方が良いという事が書かれていたので、家の近所にあるメンタルクリニックへ行きました。
そこでドクターとディスカッションした時、私はボロボロと涙を流してしまいました。
その時の感情を細かく思い出せませんが、おそらく、その際自分で気づいていなかった大きなストレスを感じたんだと思います。
その当時、私の心の中に大きな何かが2つほどありました。
①自分では気づかない仕事のストレス
一つは仕事の事、もう一つは離婚して離れになってしまった息子の事。
まず、仕事の事ですが、冒頭でも書かせて頂いたように、雇われ社長として会社を経営していました。
私は、アルバイトで入った会社で半年で正社員になり、それから半年で主任になり、それから半年で社長になりました。
もちろん、先輩や上司もいましたが、それを追い越して突然社長になったのです。
それまで生きてきた人生で、「社長になる」なんて考えた事もなかったので、その大きなプレッシャーと、また先輩や上司よりも上の立場になってしまったという罪悪感がありました。
ただ、私が強烈にストレスに感じていた事はそれとは別に、その業務内容にありました。
その会社は、アダルト関連の電話サービスの業務を行っており(いわゆるテレフォンS○X)、サービスのお金を支払わない顧客に対して督促電話や請求書を発送するという業務でした。
全く見に覚えの無い顧客へのいわゆる「架空請求」とは違い、ちゃんと使用した顧客に対しての請求で、金額も初回利用料金5,000円に対し、事務手数料として3,000円を上乗せする程度で、いきなり数万円とか数十万円の請求をするといった悪質なものではありませんでした。
※事務手数料3,000が安いとは思いませんが。
しかし、やはりリスクがある仕事で、「架空請求だ!」「詐欺だ!」と電話口で怒鳴られる事も多々ありました。
そんな中でも1番ストレスになったのは、警察に通報されるという事でした。
ある日、突然入金される会社の口座が凍結されたのです。
いくら使ったサービスだといえ、顧客が警察に通報すれば鶴の一声で口座は凍結されます。
銀行に連絡したところ、
「警察から架空請求で使われている口座なのですぐに凍結して下さい」
という連絡が入り、すぐに凍結したとの事です。
それを放っておくと、もちろん口座からの出し入れが出来なくなり、家賃や従業員への支払いが出来なくなります。
そして、一回凍結されると、そう簡単には戻らないのです。
架空請求や詐欺で使わていないという、ちゃんとした確証が取れない限り、口座は凍結されたままになります。
私はとにかくすぐにでも凍結解除してもらう為、会社を飛び出し警察に出向き、取り調べ室のような部屋に入ってすぐに土下座し、涙を流し、
「当社は架空請求など行っていません!サービス利用した証拠もありますし、私を信じて下さい!従業員もその家族もいるんです、お願いします!」
と泣きつきました。
おそらく警察も、そんな姿を見てわかって頂けたのか、異例の半日で凍結解除になりました。
しかし、それから不安な毎日が続き、また、「こんな誰にも話せないような仕事を続けていていいのか」という気持ち、口座凍結や警察からの電話の恐怖、売上を上げなければオーナーからお叱りを受けるというプレッシャーを抱えながら仕事をしていました。
おそらくその当時、そんな事から精神が崩れていったんだと思います。
②離婚の後悔から子供への罪悪感
2つ目の子供の事ですが、私が27歳の時6年間の結婚生活に終止符を打ち離婚しました。
その時5歳の息子がいましたが、息子は奥さんが育てる事になり、私は上京した為離れ離れになってしまいました。
子供と離れて生活してみて、離婚した事に後悔しました。
私も上京してお金がなかったので、子供に会いに行けるのは年に1~2度でしたが、別れ際まだ幼い息子に泣かれる度とてつもない気持ちになったのを覚えてます。
息子が小学生になって会いに行った時、「全然会えなくても平気だよ」というような顔をして無邪気に遊んでいましたが、帰る際、車の中でキャップを深くかぶり、歯を食いしばって涙を流しているのが見えました。
私はその姿を見た時に、「何も罪がない小さな子どもを、こんなに悲しませていいものなのか」と自分を責めました。
そしてそれからも子供への罪悪感を抱えながら生きていました。
メンタルクリニックに行くまでは、この仕事の事、子供の事が原因とは思っていませんでしたが、ドクターとのディスカッションで涙を流しながら、この話しを自分でした事には自分自身驚きました。
日々大きくなる孤独感
クリニックでは、3種類の抗うつ剤を処方して頂き、仕事の事に関しては、「できるだけ休むように」、子供の事に関しては、「そこまで息子さんの事を思っている事は息子さんにも通じてるので、これからは自分も大切に」という言葉をもらいました。
そして私は、目に見えない病「うつ病」との闘病生活が始まりました。
仕事に関しては、その時の部下に話し、会社を休む事にしました。
ただ、オーナーには言えず内緒にしていましたので、その間は何事も変わらず給料をもらえ、生活に関しては心配する事はなかったのですが、「いつかバレる」という不安が更に精神的に自分を追いつめてしまいました。
オーナーは大柄で「いかにも」という方でとても怖い存在だったので。
家にいた期間は、ほぼテレビを観ていました。
ドクターから、なるべくテレビを観るように言われていたからなのですが、その当時はスマホもなかったですし、インターネットもそこまで楽しいものではなかったのでそうしていました。
夜はなかなか寝られず、朝方まで起きているんですが、だからと言ってお昼頃まで寝れる訳でもなく、睡眠不足でなんだかボーっとする毎日を過ごしていました。
抗うつ剤の影響なのか、自信があった性欲もほぼなくなり、何の為に生きているのか、世間から突き放された気分にもなり、一度だけ、「この薬をまとめて飲めば…」と考えた事があります。
雇われ社長という立場は、今考えるともの凄く孤独な立ち位置でした。
会社の責任は自分ひとりにかかっているのにも関わらず、自分の判断でお金を動かす事もできず、同僚という気軽に仕事の事を相談できる相手もいない。
なので、心配して連絡をくれる相手もいませんでした。
私は日に日にその「孤独」という闇に落ちていく感覚が大きくなっていきました。
生きる事への絶望の始まり
そんな生活を1ヶ月ほどしていると、オーナーから電話がありました。
「○○君に聞いたんだけど、君、1ヶ月も会社を休んでるんだって?」
私は一瞬恐怖で声が出ませんでした。
でも、オーナーはうつ病という事を知っていたらしく、その後優しい言葉をかけられ、一度会おうという事になりました。
オーナーと会ったのは、新宿の「思い出横丁」の中にある薄暗い喫茶店。
コーヒーを飲みながら、うつ病という病気の事に関して20分位話したあと、
「仕事はどうするの?今の事業もリスクがあるから新しい事業も見つけないとやばいでしょ?どうするの?」
それからかなりの時間沈黙が流れ、私は汗びっしょりになったのを覚えています。
それからあまり記憶はないんですが、朝方近くまで、歌舞伎町中の「風俗案内所」を走り回っていました。オーナーが同じような商売を考えていた為、広告費や紹介料などのリサーチをして来いと言われやっていたような気がします。
朝方、汗びっしょりの中タクシーで帰り、そこから更に体調もなくなり、それから外に出ようという事は一切思いませんでした。
「もうクビになってもいいし、どうなってもいい。」
それから一旦実家に帰ろうかとも考えて新幹線に乗りましたが、新幹線の中でパニックを起こし、名古屋駅で降ろされ、そこから救急車で病院へ運ばれました。
私は名古屋の病院のベッドの中で
「もうこのまま生きたくない、もう自分の人生は終わった」
私は本気でそう思い、生きていく事をほぼ諦め、「幸せ」という言葉は私の中から消え、ただただ絶望の中にいました。
幸せな今の現状まで道のり
ーそれから15年ー
私は今、雇われ社長ではなく、小さいながらも自分で会社を立ち上げ、10人ほどのスタッフを抱え9年経ちました。
9年間全て利益を出し、去年度は3,000万円ほどの利益を経常しました。
都内で悠々自適に暮らし、その当時の事は嘘のような順風満帆な生活をしています。
今では困ってしまうほどの性欲も食欲もあります。
そして息子も今年25歳。LINEのやり取りしたり、二人で飲みに行くとてもいい仲です。
では、どこで私は変わり、うつ病から抜け出す事が出来たのか。
答えは、何も変わってなく、おそらくうつ病からも抜け出せていません。
「は?」という声が聞こえてきそうですが、本当にそうだと思います。
自分が違う誰かになった訳ではなく、うつ病を克服しきったとは思えないのです。
でも、今がすごく幸せだと感じて生きています。
考える事
この記事のタイトルでもある通り、うつ病で仕事ができず引きこもっている時に、「考えなければいけない事と、考えてはダメな事」があります。
では、まず私が何を考えていたかと言うと、「この先どれだけ適当に生きてやろうか」という事です。
もう一切の責任を放棄し、自分の為に生きる事。
そして、できるだけ好きな事をしようという事。
これからの人生、目の前に現れた全ての選択の場面で、楽しい方を選ぶという事。
そんな生き方したっておそらく死なないって事。
私がずっと部屋で数ヶ月考え、本を読み漁って出た単純な答えです。
「うつ病」ってどこから来るかっていうと、真面目さから来ると思うんです。
決してそれは悪い事ではないんですが、それが過ぎると、強い責任感や不安に変わり、また怒りに変わる事になります。
なので、真面目すぎる人は、適当になるくらいがちょうど良く、心のバランスが取れる気がしますし、私はそうでした。
なので、「いかに適当に楽しく生きるか」という事は凄く大事な考えだと思っています。
そんなんでいいの?と思うかもしれませんが、そういう考えで生きてきた私の現在ですが、仕事もうまくいき、仕事の相談できる相手や、一緒に飲み明かせる友達、わかり合えるとても可愛い彼女がちゃんといます。
いくら「適当」に生きようとしても、ただの「適当な人間」にはならないんです。おそらく。
考えてはダメな事
もう一つの「考えてはダメな事」ですが、それは「うつ病」の事です。
私もそうでしたが、「どうやったら治るのか」という事を凄く考えていました。
でも、治す事を考えていても答えなんか見つからず、余計に苦しくなってきます。
なので私は、治す事は一切考えず諦めて、「一生こいつと友達でいよう」と決めました。
それ以来、「治す」という考えは捨てました。
ここで大事なのは、治療を放棄するという事とは違います。
私も数年は抗うつ剤を飲んでました。
それは、食事を摂るのと同じような感覚で、医者に飲まなくていいと言われるまでは、自分に必要なモノとして捉え、そうしていました。
私は今、医者から薬は必要ないと言われていますが、別に治ったとは思わず生活しています。
そういった症状がある訳ではないですが、そのような感覚で生きています。
それは、またうつ病になるという不安から守る思考であり、当たり前に思っておく事で楽に生活ができます。
例えば結構な肩こりの方が、痛くなくなった時に、「治った」とは思いませんよね?
それと同じです。
痛くなったら、マッサージや整体に行こうかな、とか湿布貼って寝ようとかそんな程度だと思います。
私もそうですが、美容室なんかで「肩凝ってますねー」と言われるのが楽しみなくらい。
もうそういうのって「友達」なんです。
そうやって付き合いながら生きていく方が楽で楽しいです。
ですので、一生懸命治そうと考えるのではなく、「一生こいつに付き合ってやるか」という気持ちでいる事が凄く大事だと思います。
人生は遊行
私は冒頭でも書いたように、専門家でもなければ医者でもなく、ただ実際の経験を元に書かせて頂きましたが、こういった実際の声というのは他にもたくさんあるので、専門家の意見と合わせて参考にして下さいね。
あと、余談ですが、とあるメンタルクリニックのドクターと話していて、
「あ、この人何も知らないな」
と思ったくだらない事が一つあります。
電車の中の話しになった時に、
「電車の中は暑いですよねー、特に夏は異常なくらい暑いですよね」
ってドクターは言ったんです。
別になんてことない会話ですが、私は心の中で「電車の中が1番暑くないのは、エアコンをガンガンにかけている夏だけど」と思っていました。
実際に私はうつ病が酷い時期、この電車の中が凄く嫌いでしたが、春先の暖かい日や、梅雨時のジメジメした日にエアコンを入れてくれない電車にイライラしたり、冬場の過渡な暖房の暑さにイライラしてましたから。エアコンガンガンの夏が1番楽だったのです。
それから、実際にそのドクターの言う事がそれ以降何も耳に入らなくなってしまった、という私の懐かしい思い出です。
では、ここまでの長文お読み頂きましたが、うつ病と診断され、仕事も出来ず不安になられている方、また身近にいらっしゃる方、私はとても頑張り屋な方だと思っています。
だからこそ、無理してしまったり、我慢してしまったり。
でも、私が経験してきて本当に思う事は、もっと適当に生きてもいいのでは?という事です。私はまだ47歳ですが、おそらく人生なんてあっという間。
鎌倉時代の一遍上人という僧侶は「人生は遊行(ゆうぎょう)」という言葉を残しています。
とてつもない長い長い時空の中で、針を刺したようなとても短い「人生」という一瞬の空間に、ただ我々は遊びにきたんだと、私はそう解釈します。
所詮人生なんて遊びなんです。
今日から適当で楽しい人生を一緒に歩みませんか?
※最後に、私が1番辛かった時と違い、今は「うつ病専門の就労支援サービス」というのもありますので、仕事の事でどうしても心配な方はこちらも参考にしてみて下さいね。
管理人・ライター / TOMOYA
49歳男性。
web制作、webマーケティング、また音楽関連の会社を東京都内で経営。(2011年設立)
栃木放送「Leina✫color」パーソナリティ。
大手企業でのサラリーマンから、ミュージシャンを目指した極貧生活、20を超える業種のアルバイトや正社員を経て起業。私生活では4回の結婚を経験するなどジェットコースターのような人生を生きる。
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